金大中氏死去 日韓の新時代を開いて

朝日新聞 2009年08月19日

金大中氏死去 日韓の新時代を開いて

日本で最もよく知られた韓国の政治家ではなかっただろうか。金大中・元大統領が亡くなった。

隣国から見れば、金氏は自国の民主化や北朝鮮との平和共存とともに、あるいはそれに増して、日本との和解に心を尽くしたとの印象が深い。

歴史問題で日本の政治家らが不用意な発言をし、韓国は激しい反日ナショナリズムでやり返す。わだかまりも解けない。そんな関係を金氏は断ちたかった。植民地支配をじかに体験し、日本という国のありようを肌で知っているという強い自負と信念から、それを自らの課題としたのだろう。

大統領に就任した98年に来日し、当時の小渕首相と交わしたパートナーシップ宣言に、その思いは結実した。小渕氏が語った過去の反省と戦後日本の歩みを、韓国の大統領として初めて文書で評価し、未来志向の関係構築をうたい上げた。

韓国内に慎重論が根強いなかで、日本の大衆文化開放にも踏み切った。文化が活発に交流するようになって互いに隣国への関心が高まり、日本での韓流ブームにもつながった。

サッカーW杯の日韓共催をへて人の往来は格段に太くなった。65年の国交正常化時の年間1万人が、いまや「500万人時代」だ。経済の結びつきも強まり、すでに日帰り出張圏である。

任期後半に当時の小泉首相が続けた靖国参拝や教科書問題できしみはしたが、日韓の関係が質、量ともに格段に深まったのは間違いない。金氏が強いリーダーシップをもって果たした役割を心に刻んでおきたい。

信念の追求は、分断国家の南北関係でも発揮された。ときに融和的すぎるとの批判も浴びつつ、北朝鮮を変えるには交流と協力を重ねて関与するしかないとの思いは一貫していた。

「成功には『書生的な問題意識』と『商人的な現実感覚』が必要だ」。本紙との会見でそう語ったことがある。金氏の政治姿勢は、それをまさに地でいくものだった。

執念の大統領当選のために、かつての政敵と手を結ぶこともいとわなかった。南北首脳会談の直前に北へ5億ドルの不正送金があったと後に明らかになった際、「北の政権は法的には反国家団体だが、和解協力の対象でもある。非公開に法の枠外で処理せざるをえない場合がある」と釈明した。

一方で現実の壁の高さに苦しみもした。金氏の期待に反し、北朝鮮は核やミサイル開発を続け、解決の展望はなお開けない。日韓関係も歴史や領土問題ゆえに一筋縄ではいくまい。

来年は日本が朝鮮半島を植民地にした「韓国併合」から100年。隣国との歴史を顧みる契機である。金氏が切り開いた道を踏みしめ、これからの両国関係を見すえたい。

読売新聞 2009年08月20日

金大中氏死去 問われ続ける太陽政策の功罪

韓国大統領として初の北朝鮮訪問で金正日総書記と会談し、ノーベル平和賞を受賞した金大中氏が85歳で亡くなった。

韓国の現代史は、金大中氏を抜きに語ることはできない。激動する政治の渦の中心に、その身をおいた生涯だった。

36年前、東京で韓国情報機関要員に拉致され、ソウルに強制的に連れ戻された金大中事件で、世界にその名が知れ渡った。

以来、当時の韓国政権から収監や自宅軟禁など執拗(しつよう)に弾圧を受け、1980年には、内乱陰謀罪で死刑を言い渡された。

それに屈せず民主化運動の先頭に立ち続けた勇気が、軍事政権を終焉(しゅうえん)させる原動力となった。その功績はだれも否定できない。

4回目の挑戦で大統領となると、未曽有の経済危機を大胆な構造改革で克服し、韓国を情報技術(IT)先進国に躍進させた。

大きな一歩を踏み出しながら、期待通りにことを運べなかった重要な課題もある。

金大統領は98年、小渕首相と日韓共同宣言に署名し、過去の歴史問題に区切りをつけ未来志向の関係を発展させるとした。日本の大衆文化を解禁して、日韓の往来が急増する契機を作った。

しかし任期後半、韓国のナショナリズムに押された形で、韓国政府は日本の中学歴史教科書の検定内容の修正を要求した。歴史認識をめぐる双方のわだかまりは解けないままに終わった。

北朝鮮との関係では、経済支援によって金正日体制の変化を促すという太陽政策を掲げた。「敵対」から「共存」への路線転換は、朝鮮半島情勢に新局面を開いた。

だが、北朝鮮が核とミサイルを格段に強化した現状を見れば、支援は北朝鮮の核開発につながっただけ、との批判は免れない。

金大中氏の死は、今後の朝鮮半島情勢にどんな動きをもたらすのか。太陽政策を支えた盧武鉉前大統領の自殺に次ぐ今回の死去は、北朝鮮に大きな痛手だろう。

北朝鮮は、金総書記の弔電に続き、弔問団も派遣するという。これを機に、南北対話再開を模索する可能性がある。

韓国の李明博大統領は、核放棄の決断を促し、南北の通常戦力削減協議の開始を提案している。平和共存を唱えながら軍事的な緊張を緩和する措置を講じなかった太陽政策の欠陥を補うものだ。

太陽政策が肯定的に評価されるとすれば、それは、北朝鮮が核を放棄し、半島の平和定着に向けた南北対話に取り組む時だろう。

産経新聞 2009年08月20日

金大中氏死去 未完に終わった対北融和

韓国の金大中元大統領が亡くなった。先に盧武鉉前大統領が自殺している。数カ月の間に大統領経験者が相次いで亡くなるとは。「アイゴー」という韓国国民の嘆きが聞こえてきそうだ。心から哀悼の意を表したい。

金大中氏は1973年の「金大中拉致事件」もあって、ことのほか日本とはゆかりが深かった。波瀾(はらん)万丈の人生は激動の韓国現代政治そのものだった。その人生を振り返れば、日韓の関係の近さとともに、あらためて韓国政治に対する「北の影」を感じさせられる。

たとえば、国際的に知られるきっかけとなった「拉致事件」は、当時の韓国の朴正煕政権に対する評価を抜きには語れない。

日本は当時、北朝鮮と対決しながら経済建設を進めていた朴政権を支持し、支援を続けていた。北朝鮮の背後には、ソ連や中国が健在であり、「共産主義の脅威」を感じていた日本にとって、韓国の経済発展と安定は不可欠だったからだ。

しかし、野党の金大中氏は半ば海外亡命のかたちで朴政権批判を展開し、日本の対韓支援政策を糾弾していた。これは日本政府にとっては“迷惑”でもあった。その後の「金大中氏救援運動」は社会党をはじめ左派や親・北朝鮮勢力などが中心だった。

日本政府は「安保と人権」の間で事件処理に苦しんだが、結局、朴政権を追い詰めることは韓国を弱体化させると判断し、韓国非難を控えた政治決着となった。南北対立からくる「北の影」を意識せざるをえなかったのだ。

金大中氏が主張し、要求し続けてきた民主化は、韓国が経済発展し、国力で北朝鮮を上回ることによって実現したといっていい。

韓国国民は、民主化の象徴だった大統領直接選挙が始まり、金大中氏の政治的自由も回復した後、軍人出身の盧泰愚大統領や同じく野党指導者だった金泳三大統領の次に、金大中氏を大統領に選んでいる。経済など国家的安定による国民の安心感が、金大中政権をもたらしたのだ。

韓国政治には「北の影」がつきまとう。金大中氏は初めて南北首脳会談を実現し対北融和策を進めた。「北」に正面から取り組んだが未完に終わった。北の現状を考えれば失敗だったとの評も出てくる。金大中氏は絶えず時代と向き合い「挑戦」を続けた政治家らしい政治家だったともいえる。

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