毎日新聞 2009年09月21日
敬老の日 高齢者医療をどうする
後期高齢者医療制度の廃止が民主党の公約である。廃止した後にどのような医療制度にするのか、鳩山内閣はこの難題に向き合わなければならない。連立を組む社民党は75歳以上の人を国民健康保険などに戻すことを公約にしているが、長妻昭厚生労働相は「元に戻すのは、常識的に混乱が起きる可能性がある。廃止し新しい制度にした場合も含めてメリット、デメリットを速やかに検討するよう指示した」と慎重な姿勢を見せている。
破綻(はたん)寸前の国保を救済するために導入したのが後期高齢者医療制度なのだ。元に戻すだけでは根本的な解決にはならない。しかも自民党政権は1168億円も投じて負担軽減に努め、国保に入っていた世帯の75%が後期医療制度で保険料が下がった。再び保険料が上がれば不満が噴出するのは必至だ。容易には引き返すことができないところに鳩山内閣は立たされているのだ。
07年度の国民医療費34兆円のうち、75歳以上だけで10兆円を占める。75歳を過ぎると要介護高齢者の発生率が急激に高まるためで、長期入院患者の7割が75歳以上ともいう。1人当たりの医療費を見ると、45~64歳が26万円なのに対し、75歳以上は79万円と約3倍だ。これでは保険財政が窮状に陥るのも無理はない。「被用者保険と国保を段階的に統合し一元的運用を図る」というのが民主党の公約だが、誰かが負担しなければならないことに変わりはない。大企業の会社員らが加入する健保の約7割が08年度決算で赤字の見込みという。高齢者医療制度への負担が直撃しているためだ。
冷静に考えてみよう。年齢で差別することはあってはならないが、病態や医療コストが異なることを踏まえて診療報酬などの制度変更を検討する余地はないか。医療費だけ目を凝らしていると出口のない袋小路のような気がしてくるが、介護も含めて高齢者を包括的に支える仕組みについてもっと模索してもいいのではないか。
自民党政権は長期入院の多い高齢者の療養病床を35万床から22万床へと削減する計画を進めてきたが、受け皿となるべき介護施設の整備がまったく遅れている現状では、不安を募らせるばかりだ。その点、民主党は療養病床削減計画の凍結を公約にしている。高齢者の医療と介護をどうするのか、負担増の論議からも逃げずに全体像を早急に提示すべきだ。
75歳以上の人口は06~12年の6年間で23・6%も増える。敬老の日ではある。しかし、根拠の乏しい理想論や建前を廃し、現実に向き合わなければこの国の高齢者を守ることはできない。
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読売新聞 2009年09月21日
敬老の日 安心できる超高齢社会に
鳩山政権が発足して間もないきょう、敬老の日を迎えた。日本の高齢化は、世界に類を見ないスピードで進行している。
敬老の日が祝日となった1966年、日本人の平均寿命は男が68歳、女は73歳だった。それが今では男79歳、女86歳となり、年々延び続けている。100人に1人、約130万人が90歳以上という時代である。
無論、高齢化それ自体は憂うべきものではない。多くの人が長寿であるのは喜ばしいことだ。
にもかかわらず、超高齢社会が暗いイメージで語られがちなのはなぜか。社会保障制度が十分に対応できていないからだろう。
新政権はこの不安を払拭するために、老後の生活を支える年金、医療、介護をどう再構築し、維持していくのか。山積する課題に取り組まねばならない。
まず、直面する難題は高齢者医療である。
長妻厚生労働相は就任会見で、改めて「後期高齢者医療制度は廃止する」と表明した。ただし廃止時期には触れず、その後については「現状を把握した上で制度設計する」とした。これは現実的な選択と言えよう。
後期高齢者医療制度は、老人保健制度の行き詰まりを打開する目的で作られた。75歳以上の人の医療費を現役世代がどれだけ負担するかを明確にし、県単位の保険者を作って保険料格差を縮めた。
新制度には様々な欠陥や説明不足もあったが、呼称などに対する感情的反発が先行し、冷静な議論が行われたとは言い難い。
野党なら政策の欠点だけを追及し、「ただちに廃止して老健制度に戻せ」と唱えればよかったが、政府・与党となったからには、いたずらに混乱を招くだけの選択は許されまい。
後期高齢者医療制度の利点と欠点を適切に評価し、発展的に再構築することは、「現制度を廃止する」との公約に反しない。冷静かつ建設的に、高齢者医療の将来像を練ってもらいたい。
その場合、保険料や窓口負担が限界と見るならば、公費の投入を増やすしかない。医療に限らず、年金も介護保険も同様だ。
だが、子ども手当など他の新規施策だけでも財源確保に疑問符がつく中で、増税なしに高齢者施策の財源は見いだせるだろうか。
消費税を社会保障税とし、きちんと財源を確保すれば、超高齢時代の施策は選択肢が広がる。新政権は一日も早く決断すべきだ。
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産経新聞 2009年09月21日
敬老の日 長寿者の「味わい」に乾杯
きょうは「敬老の日」である。政権が交代したばかりの時期ということもあり、高齢者にとっては何かと考えるところの多い祝日となったのではなかろうか。
例えば「後期高齢者医療制度」について、鳩山由紀夫内閣は「廃止」を明言したが、高齢者政策がめまぐるしく変わるようでは戸惑いを感じる人も少なくないだろう。
それでなくとも急激な少子高齢化のなかで、本来は祝うべき長寿を、まるで財政に負担を与える「お荷物」であるかのように受け止める風潮もある。高齢者は生きがいと自信をなくし、疎外感を覚えるだけである。
このような風潮を生む原因の一つとして、「高齢者問題」といえば年金や医療、介護など「福祉の問題」が注目される一方で、「敬老」の「敬」の意義を見据えた「心の問題」への関心が希薄である点が考えられよう。
さらに核家族化の進行や道徳軽視の学校教育などともあいまって、敬老精神はますます若い世代に縁遠いものとなっていった。
情報化社会についていけない高齢者を見下すなどの傾向が現役世代に見られるのも同様の例で、「敬老」どころか「軽老」の世になったと慨嘆する人も多い。
誰もがいつかは老いるという、当たり前のことすら忘れられてしまったみたいだ。新政権が道徳教育にどのように取り組むか、見守っていきたい。
最近では「老」に負のイメージを重ねる人が増えているようだが、元老、長老、老練などの語を見ても分かるように、「老」には「経験を積んでよく知っている、年をとって徳が高い」との意味もそなわっている。
評論家の渡部昇一さんは、若いころに感動した名作を、年をとってから読むとつまらなく思われることがあるのは、感動する力が衰えたのではなく、自分が進歩したからと思えばいいと教える。
若いころは、どちらかといえば「人と競う」ことの多い体力や記憶力が盛んだが、年をとれば、もっぱら「人が味わう」べき情感や知恵が豊かになる。
社会経験と人生観察を積んだ老人が敬われる理由はそこにあり、祝日法も「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」と規定している。
それでは、長寿の皆様のそれぞれの「味わい」に心から乾杯!
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