敬老の日 不明高齢者のいない社会に

毎日新聞 2010年09月20日

敬老の日 「長命社会」を直視しよう

敬老の日といえば長寿を祝う行事が各地で行われるが、今年は少し違う空気を感じる。生きていれば111歳、東京都内最高齢だった男性の白骨死体が見つかったのをきっかけに問題は広がり、法務省によれば戸籍上は生存しながら現住所不明の100歳以上が全国で23万人もいることが分かった。戦中戦後の混乱や海外移住などが原因と思われるが、家族が死亡を届け出ず年金を不正に受け取っていた例もある。「長命社会」の虚構と現実を直視すべき年として歴史に刻まれるに違いない。

これからの10年間でわが国の高齢者は約650万人も増える。団塊の世代が65歳を過ぎるのに従い、私たちは最も急な高齢化の坂を迎えるのだ。同時にそれ以上の数の現役世代(15~64歳)が減っていくことを考えると、坂道の険しさがひときわ身にしみるというものだ。

現在、国では介護保険改正の議論が行われているが、やはり限られた財源での制度改革には限界がある。要介護度の高い人、認知症の人の急増が今後の重要な課題である。保険料や税負担についてもタブーのない検討が必要だ。国民全体で痛みを分かち合いながら介護サービスを充実させなければならない。介護は雇用の受け皿になるだけでなく、親の介護のために離職せざるを得ない人を救うことにもなるのだ。

ただ、制度だけではどうにもならない現実もある。高齢者の所在不明問題はその最たるものだ。家族や隣近所による助け合い、お年寄りが地域社会で自らの役割を担いながら豊かな人間関係を築いていくことの大切さをもう一度かみしめたい。過疎や財政難で破綻(はたん)寸前の地方でも、住民の互助と工夫によってコミュニティーを再生し活性化している地域はいくつもある。近未来に向けての希望としたい。

自治体にも注文がある。4人部屋や6人部屋が普通だった特別養護老人ホームについて、国は02年から全室個室のユニット型しか新設を認めなくなった。病院と違って特養は住まいの場である。人生の最晩年、長い人では10年以上も暮らす場が「雑居」でいいはずがない。

ところが、財政難や利用者負担の回避を理由に4人部屋と個室を併設した特養が首都圏の自治体などで計画されている。地域主権の流れが雑居化を促しかねないのだ。ここは居室面積の基準緩和や家賃補助によって個室化を守るべきではないか。

特養の待機者は42万人というが、自宅や高齢者専用住宅に介護や医療を外付けする福祉はもっと評価されてもいい。地域主権によって住民自身が望む老後を実現するために自治体の自覚を促したい。

読売新聞 2010年09月20日

敬老の日 不明高齢者のいない社会に

〈多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う〉。きょう「敬老の日」を定めた意義を、祝日法はそのように記している。

今年は、この日を複雑な思いで迎えた人が多いだろう。

7月末に東京都足立区で、都内の男性最高齢111歳とされていた人が、実は30年以上前に自宅で死亡していたことが発覚した。亡くなったことを隠して男性の年金を受給し続けた家族が逮捕、起訴されている。

これを契機に、各地で続々と明らかになった安否不明高齢者の問題は、「長寿社会」の寒々しい実態を浮き彫りにした。

今月15日時点で100歳を超える人は、住民基本台帳の上では前年より約4000人増えて、4万4449人になるという。

だが、正確な人数は特定できない。全国の自治体で所在確認は進んでいるものの、まだ安否不明者がいる可能性がある。

90歳以上、75歳以上と調査範囲を広げれば、不明者の数はさらに増えるだろう。

戸籍制度の形骸(けいがい)化した一面も浮かび上がった。

死亡届が出されず、戸籍の上では「生存」しているのに現住所が分からない100歳以上の高齢者は、23万人もいることが、法務省の調査で判明した。

戦災で亡くなった人の戸籍が残っているケースなども多いと見られ、必ずしも今回の問題と同一視はできないが、このままでは戸籍の信頼性も損なわれよう。

いずれにせよ、高齢者についての記録が、消息を確認しないまま放置されてきたことは、高齢者に対する社会的な関心の低さを反映している。

行政の怠慢だけで片づけることはできない。家族からの届け出を前提に高齢者の現状を把握する仕組みは、すでに相当前から限界を迎えていたのではないか。

人間関係が薄まる中で社会の高齢化は加速していく。家族の大切さを再確認するだけでなく、それを補完する様々な形の「縁」を築くことが求められよう。

行政と地域が、ある程度は高齢者の個人情報を多角的に共有すべきである。社会保障番号を整備して、医療や介護など福祉制度を連携させる必要がある。戸籍や住民登録のあり方を含め、制度を見直し、整える時だ。

社会として〈老人を敬愛し、長寿を祝う〉には何が必要か、熟考する日としたい。

誰もが未来の老人である。

産経新聞 2010年09月20日

敬老の日 「社縁」広げて安心長寿を

もともと仏教の真理を表す言葉とされる「縁」は、「これも何かのご縁で…」「良縁に恵まれますように」などと日常的に用いられる。人は、他との縁によって生かされているというのが日本人一般の通念だろう。

ところが、いま全国で続出している高齢者の所在不明問題は、日本社会における地縁血縁の希薄化どころか、まるで無縁化の様相すら浮かび上がらせている。

高齢化が急速に進むなか、大都市やその近郊の団地などでは住民の高齢化率(65歳以上の割合)が50%を超えているところも多く、独居者の孤独死防止策が切実な課題になっているという。最近の内閣府調査でも、60歳以上の単身世帯の約65%が「孤独死を身近に感じる」と答えていた。

日本の家族形態が大家族から核家族へと大きく変化し、子供と同居しない高齢者も増えてきた。今の高齢者は、自分たちの親の世代のライフスタイルを参考にすることもできず、戸惑っているのではないかと思われる。

近隣との付き合いについて尋ねた同調査で、「ほとんどない」と答えた80歳以上の人は12%もいた。とくに地域とはあまりかかわってこなかった人が多いといわれる男性高齢者の場合は、孤立化がさらに深刻だ。

国の対策ももちろん重要だが、高齢者自身にも意識の転換が求められよう。例えば「社縁」という言葉を聞くことがある。「会社を通じた縁」の意で使われることが多いが、「さまざまな社会生活面における縁」と解説する識者もいるように、「社会的な人間関係の広がり」という大きな概念でとらえてもよいのではないか。

日本の高齢者の人間関係といえば、どうしても配偶者や子供などの家族に偏りがちで、地域住民や友人というふうに多様な広がりを見せるアメリカなどとの違いが指摘されている。家族偏重では、配偶者の死や子供の独立などによって高齢者を支える縁はたちまち先細りしてしまう。

人との有機的なつながりをいつまでも保つには、地縁血縁だけでなく、趣味のサークルや市民活動などを通じて幅広く「社縁」を結んでいくことが大切だ。

きょうめでたく「敬老の日」を迎えた長寿の皆さんには、今後とも多くの「良縁」に恵まれ、安心して暮らせるよう祈りたい。

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