スポーツ選手だから正しく振る舞うのではない。社会で暮らす人間はだれであれ、ルールを守らなければならない。
日本バドミントン界のエース桃田賢斗選手と、五輪代表にもなった田児賢一選手が、違法カジノで賭博をしていた。
4カ月後に迫ったリオデジャネイロ五輪の代表になれば、桃田選手はメダル候補と言われていた。じつに残念なことだ。
2人が所属するNTT東日本では、他の6人も違法な賭博に手を染めていた。同社と日本バドミントン協会は調査を尽くし、厳正に対処してほしい。
五輪へ選手を派遣する日本オリンピック委員会も、各団体と協力して、選手教育のあり方を見直す機会とすべきだろう。
最近、スポーツ界の不祥事が相次いでいる。プロ野球では現役選手による野球賭博や、元選手の覚醒剤事件があった。
五輪競技のトップ選手たちの環境は、プロ野球選手とそう変わらない。中学、高校から競技中心の生活に明け暮れる。
好成績に伴い賞金が増える選手もいる。高収入と人気を集めるにつれ、自分を特別な存在と勘違いしかねない土壌に足を踏み入れる。その危うさは、どんな選手にもおこりえることだ。
もちろん、一流選手になるまでの長い努力の過程は、称賛に値する。だから、そこに模範の人間像を見いだそうとすることもある。
だが現実には、競技での成功と人間の高潔性とは、必ずしも一致するものではない。政治や文化も含めて分野を問わず、成功者も、人間として等しく順法意識と道徳心を保つよう自らを律していくのは当然のことだ。
もし今のスポーツ界に、競技での成功が「特別な地位」をもたらすという錯覚があるとすれば、意識変革が必要だろう。
世界的にみてもテニス界の八百長疑惑や、陸上界の禁止薬物使用など問題が発覚するたび、「スポーツの高潔性」が語られる。スポーツの価値を再確認することは大切だが、その言葉には「スポーツにかかわる人間は普通の人たちとは違う」という響きも潜んでいないだろうか。
社会は、規範のなかで努力する人間の営みを礎としている。その原則から超越した「特別な存在」はありえない。
2人が通ったとされる裏カジノでは、暴力団関係者も逮捕された。反社会的勢力と立ち向かう社会の流れにも水を差した。
今回を機に、すべてのスポーツ界の関係者は改めて考えてほしい。優れた選手やコーチである前に良き社会人であれ、と。
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