小さな命がまた奪われた。
奈良県桜井市の5歳の智樹ちゃん。親から十分に食事を与えられずに亡くなった。埼玉県蕨市でも2年前に4歳の力人ちゃんが、親からの虐待で亡くなっていたことが発覚した。
智樹ちゃんの体重は6キロで1歳児の平均に満たなかった。体はやせ細り、紙おむつを着けて寝かされていた。
病院に運ばれ、急性脳症で亡くなった力人ちゃんも歩けないほど衰弱していた。部屋からは大人の怒鳴り声や子の泣き声が響き、「お水をください」と哀願する声が聞こえたという。
育ち盛りの子が両親に見放され、命をそぎ落とされる。そのむごい様子を思うだけで、胸がつぶれる。
育児放棄であり、虐待である。事実であれば許すことはできない。
だが、なぜわが子の虐待が絶えないのか、その背景も考えてみたい。
経済苦や不安定な就労、ひとり親家庭、夫婦間の不和、望まぬ妊娠、育児疲れ――さまざまな要因が、東京都などの実態調査から浮かぶ。そこに共通するのは「孤立」だ。
たとえば、職を失い借金を抱え、生活費や居住費にこと欠いても、かつては親族や友人が頼りになった。
地縁血縁という見えない「安全網」がほころび、相談したり救いを求めたりする場は乏しく、あっても見つけにくい。解消されない苦しみや焦りを抵抗できない子どもたちに向かわせる。そんな姿が浮かびあがる。
虐待された子が成長し、親になったときにまた、わが子を虐待してしまうこともあるといわれる。
親や身近な大人に愛されたり、大切にされたりした記憶がない。信じても裏切られるから信じない。行き場のない孤立感が、わが子への刃(やいば)となる。
親による子どもの虐待が問題になり始めたのは1990年代からだ。その親たちが生まれたのは60年代以降だろう。日本は成長と繁栄を求め、農村から都市へ人が移動し、郊外に住んだ。親と子だけで生活する核家族が増え、地域とのかかわりは薄くなった。
そして、バブルの崩壊と長い不況、格差社会がやってくる。人と人とのつながりはますます細ってしまった。
それにしても、2人の子どもたちを救えなかったものか。自治体や児童相談所がもう一歩踏み出す手立てはないだろうか。近所の人たちの知らせをもっと生かせないか。
虐待を受ける子どもの命は社会が守らなければならない。検証して今後につなげたい。
どんな事情があろうと虐待の罪が軽くなるわけではない。
同時に、相次ぐ親による児童虐待は、日本の社会が長い間に失ったものの大きさを、私たちに厳しく突きつけていないだろうか。
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