戦後70年・ピケティ現象 希望求め議論始めよう

朝日新聞 2015年01月03日

日本人と戦後70年 忘れてはならないこと

戦後70年。

アジアや太平洋の戦場で、灯火管制下の都会で、疎開先の田舎で、多くの人たちがあの戦争を経験した。

その人たちが少しずつ世を去るとともに、社会が共有してきた記憶は薄れ、歴史修正主義とみられる動きも出てきた。

だが、日本が国際社会で生きていく以上、そうした態度を押し通すことはできない。70年かけて築いてきた国内外からの信用を損なうだけだ。

戦後70年にあたり、安倍首相は新たな談話を出すという。50年の「村山談話」、60年の「小泉談話」に続くものだ。

アジアだけでなく、欧米諸国も注目する談話の中身は、まだわからない。しかし、首相が繰り返し「未来志向」を強調するのが気がかりだ。

首相は過去2年の全国戦没者追悼式の式辞で、90年代以降の歴代首相が表明してきたアジアへの加害責任に触れなかった。

もし、「安倍談話」が式辞のように戦争責任を素通りしてしまったら、どうなるか。

村山談話は、植民地支配と侵略によってアジアの人々に多大の損害と苦痛を与えたと認め、痛切な反省とおわびを表明。以後、安倍内閣まで引き継がれてきた政府の歴史認識の決定版であり、近隣諸国との関係の礎となってきた。その価値を台無しにすることは許されない。

「未来志向」がいけないというのではない。だが、過去と真剣に向き合ったうえでのことでなければ、被害を受けた側からは「過去は忘れようと言っているのか」と受け取られるおそれがある。

首相はかつて「村山談話はあいまいで、歴史的価値は全くないと思うが」との自民党議員の国会質問に、「侵略の定義は定まっていない」と応じて批判を浴びた。「歴史認識については歴史家に任せるべきであろう」とも繰り返している。

史実の研究は歴史家に委ねるにしても、政治家が「あの戦争は何だったのか」という大局的な歴史観を持たずに、内政や外交のかじ取りはできない。

政府は談話づくりにあたって有識者の意見を聴くというが、まずは首相が歴史観を示し、国会で論じることが不可欠だ。

日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で東京裁判を受諾し、主権を回復した。戦争責任をA級戦犯に負わせる形で国としてのけじめをつけた。この事実は否定しようがない。

首相は一昨年暮れ、A級戦犯が合祀(ごうし)された靖国神社に参拝した。昨春には戦犯として処刑された元日本軍人の法要に自民党総裁名で追悼文を送った。

東京裁判には「事後法による勝者の裁き」との批判がある。その側面はあるにせよ、日本人だけで310万もの犠牲を招いた惨禍だ。責任を不問に付すなど、できるはずもなかった。

首相に喝采を送る人たちがいる。しかし、首相の行為は単なる追悼の意味を越えて、様々な思いをのみ込みながら「けじめ」を受け入れてきた人たちをないがしろにするものである。

あの戦争を問い続けた劇作家の故・井上ひさしさんは、東京裁判には問題が多いと認めたうえでこんな言葉を残している。

 戦争責任問題は、明治以来みごとな近代化を成し遂げ、戦後の焼け野原から奇跡の経済発展と平和で安全で平等な社会を築き上げた日本が、「それでも過ちも犯したんだよ」と自己反省するまたとない材料なのです。過ちを犯したからといって卑屈になる必要はない。過ちを犯さない国家などというものは世界中どこにもないのだから。しかし、過ちを犯さなかったと強弁することは自己欺瞞(ぎまん)であり、自らを辱めることでもある。

(『初日への手紙 「東京裁判三部作」のできるまで』)

 このところ政界でも社会でも、東京裁判を全否定したり、旧軍の行為をひたすら正当化したりする声が大きい。まるで、大日本帝国の名誉回復運動のように。

戦前・戦中のすべてが悪いわけではないし、「いつまで謝り続ければいいのか」という反発が背景にあるのかもしれない。

だが、私たちが重きを置くべきはそこではないだろう。海外での武力行使や武器輸出はせず、経済の力で途上国を援助する。これまで積み重ね、国際社会に高く評価されている平和主義の歩みこそ、日本は誇り、守っていかねばならない。

戦争責任を直視することは、父や祖父たちをおとしめることにはならない。平和主義を確かなものにすることは、むしろ先人の期待に応える道だ。

うわべだけの「帝国の名誉」を叫ぶほど、世界は日本の自己欺瞞を見て取る。この不信の連鎖は放置できない。断ち切るのは、いまに生きる者の責任だ。

毎日新聞 2015年01月06日

戦後70年・広島と長崎 人類の悲劇を見据えよ

人類史上、これほど重く、苦しい70年を経験した人々が他にいるだろうか。彼らの苦しみが地球の隅々まで十分に伝わっているだろうか。

読売新聞 2015年01月03日

戦後70年 未来志向で歴史と平和語ろう

◆誤解正す対外発信力を高めたい◆

今年は戦後70年の節目の年となる。

各国で第2次大戦終結70周年の記念行事が開催される。日本は、歴史問題とどう向き合うのか。その姿勢が改めて問われよう。

戦後日本が築き上げてきた平和国家としての信頼を基礎に、「未来志向」のメッセージを改めて国際社会に発信せねばならない。

注視すべきは、歴史問題を日本に対する外交カードとして利用しようとする中国の動向である。

◆反日宣伝にどう応じる◆

中国は、「ドイツのファシズムと日本の軍国主義」に対する戦勝70年の祝賀行事を共同開催することで、ロシアと合意した。

韓国に対しても、抗日戦争勝利と朝鮮半島の植民地解放の70周年の記念活動を提唱している。

歴史問題を前面に出し、日本に厳しい外交姿勢を示す国は、主に中国と韓国である。しかし、日本が対応を間違えば、国際社会に誤解を与えかねない。

懸念されるのは、米国や欧州の一部メディアなどが、安倍首相について、戦後体制を否定する「歴史修正主義者」ではないか、との極めて偏った見方を示していることだ。

だが、首相は、歴代内閣の歴史認識を踏襲し、「先の大戦に対する痛切な反省」を表明してきた。国際協調を前提とする「積極的平和主義」も推進している。

誤解を広げたのは、2013年12月の首相の靖国神社参拝だ。

中国政府は、東条英機元首相ら「A級戦犯」が合祀ごうしされた靖国神社の参拝は「国際的な正義、秩序への挑戦」と非難した。

日本の信用を低下させるとともに、戦後秩序の側にいるのは中国だと印象づける狙いだろう。

しかし、尖閣諸島周辺の日本領海や、南シナ海のフィリピン、ベトナムなどとの係争海域で、力による戦後秩序の変更を図ろうとしているのは、中国ではないか。

◆注目される安倍談話◆

本来、戦没者をどう追悼するかは国内問題で、他国からとやかく注文される筋合いはない。

だからと言って、近隣諸国の反日プロパガンダを増長させるような行動は厳に慎むべきだ。

注目されるのは、戦後70年に当たる今年8月に政府見解として発表される安倍首相談話である。

戦後50年に村山首相談話、戦後60年には小泉首相談話がそれぞれ閣議決定された。いずれも「植民地支配と侵略」により、多くの国に「多大の損害と苦痛」を与えたとして、反省の意を表明した。

新たな首相談話は、日本が過去の反省を踏まえつつ、将来に向けて、世界の平和と安定に一層貢献する方針を明確に打ち出すことが重要だろう。

昨年11月の日中首脳会談を踏まえ、途絶えている日中韓首脳会談を早期に実現させたい。歴史問題で溝があっても、大局的見地から建設的関係を築くべきだ。

日本と韓国は6月22日、基本条約署名50周年を迎える。しかし、慰安婦問題をめぐって日韓関係は冷え切っており、今は、盛大に祝う行事を行う雰囲気はない。

韓国政府は年末までに、慰安婦問題の白書をまとめるという。

日本政府が昨年6月、慰安婦問題に関する1993年の河野官房長官談話の作成過程を検証し、慰安婦の強制連行は確認できないとの報告書をまとめたことへの反論が狙いと見られる。

日本は、史実に基づいた主張を貫くべきだろう。

米国では、韓国系団体が、20万人以上の女性を性奴隷として旧日本軍が強制連行したとする誤った宣伝を強化する可能性もある。

エド・ロイス米下院外交委員長は最近、韓国メディアのインタビューに対し、「慰安婦は強制的に動員され、性奴隷として生きた」「歴史を否定する日本は弁明の余地がない」などと語っている。

◆「慰安婦」誇張に反論を◆

米国の政治家や知識層などに、事実に反する歴史認識を広げる反日宣伝は看過できない。

慰安婦問題の解決のため、日本政府は95年にアジア女性基金を設立した。韓国の61人を含むアジアの285人の元慰安婦に、首相のおびの手紙とともに、「償い金」を支給した。こうした事実は、海外にほとんど知られていない。

外務省は、戦略的な対外発信のため、15年度予算に約500億円を要求している。歴史や領土に関する事実関係や日本の立場を正しく理解してもらうのが目的だ。

15年度はロンドン、ロサンゼルス、サンパウロの3都市に広報拠点の設置を計画している。こうした施策を着実に強化したい。

産経新聞 2015年01月06日

戦後70年談話 積極的に未来と歴史語れ 不当な非難に繰り返し反論を

安全保障、経済など国際社会の構造が大きく変化する中で、日本が世界とどのようにかかわっていくべきかが問われている。

戦後70年の節目は、自国の歴史を振り返りつつ、将来への展望を内外に示す好機にもなろう。

安倍晋三首相が伊勢神宮参拝後の年頭記者会見で、8月にもまとめる戦後70年の首相談話に関する基本的な考え方を示した。

首相談話をめぐっては、先の大戦に関する歴史認識の表現に関心が集まっている。しかし、首相は歴史にとどまらず、未来への歩みも盛り込む意向を強調した。妥当な判断であり、評価できる。

≪国際秩序の守り手たれ≫

首相は会見で、戦後70年の日本の歩みについて「自由で民主的な国家を作り上げ、アジアや世界の友人たちの平和と発展のために、できる限りの貢献をしてきた」と語った。

日本は自ら経済成長を遂げるとともに、アジアをはじめとする各国の近代化に手をさしのべてきた。そこには中国や韓国の経済発展への協力も含まれる。これが歴史的事実である。

一方、中国、ロシアなどは今年を「戦勝70年記念」と位置付けている。とくに中国は韓国を巻き込んで、日本の戦争責任を改めて批判する姿勢を強めている。歴史戦はすでに始まっている。

安倍政権が一連の安全保障改革を進めていることについても、中国は「日本は戦後の国際秩序を破壊しようとしている」と主張している。

現実の世界はどうか。中国やロシアは国際法を無視し、力による現状変更を図っている。戦後秩序の破壊者が誰かは一目瞭然だ。

事実に反する宣伝は受け入れられない。日本は反論し、事実に基づき冷静に情報を発信すべきだ。中国の宣伝に影響されて安全保障法制の整備が進まなければ、日本や日本国民の安全を守り抜くことはできないし、国際的地位も損なわれかねない。

首相が会見で語ったように、「積極的平和主義の旗の下、世界の平和と安定のため一層貢献していく」という明確な意思を世界に伝えていくことが重要となる。

政府が通常国会で実現を図ろうとしている安保法制の整備は、自衛隊法改正などを通じ、自衛隊の国際平和協力活動の拡大や集団的自衛権の行使を可能とする内容である。日米共同の抑止力の強化とともに、積極的平和主義を裏打ちするものといえよう。

日本は一貫して、戦後秩序への挑戦者ではなく、守り手であった。談話は、これからもその役割を果たしていくとの決意を表明する機会にもなろう。

≪広い視野で史実見よう≫

首相は、日本の「侵略」を明記した平成7年の村山富市首相談話(村山談話)をはじめとする歴代内閣の歴史認識を「全体として引き継いでいく」と語った。

村山談話は戦後50年に際し、自社さ政権時代に閣議決定された。与野党が合意する形での国会決議が実現しなかったため、首相談話として出された経緯がある。

当時の野坂浩賢官房長官は有力閣僚や与党幹部らに内容を詳しく説明しないまま、「首相の気持ちなので何も言わずに了解してほしい」と根回しして決定された。

村山談話の閣議決定では、その場にいた多くの自民党閣僚も了承した。政府の連続性を考えた場合、注目される70年の節目にあたり、歴史認識を大きく転換することも容易ではなかろう。

首相が歴史認識などを基本的に継承する姿勢をとっているのは、そうした判断なのだろうか。しかし、ある内閣が過去の歴史を一方的に断罪し、その後の内閣が踏襲していくことの弊害は大きい。

それだけに、未来に向けた日本の決意や、戦後の歩みへの誇りを胸を張って表明する意義や必要性は高い。

先の大戦での日本の行動をおとしめる主張だけが内外で行われることへの懸念は大きい。とりわけ学校教育現場における偏った歴史教育から、子供たちを守ることはより重要となる。教育の正常化の取り組みに「歴史修正主義」と一方的なレッテルを貼り、偏向の是正を妨げることは許されない。

日本は言論や学問の自由が保障された社会で、さまざまな歴史のとらえ方があっていい。だが、広い視野で歴史を見ようと努める姿勢を忘れてはならない。

朝日新聞 2015年01月01日

グローバル時代の歴史 「自虐」や「自尊」を超えて

歴史の節目を意識する新年を迎えた。

戦後70年。植民地支配をした日本と、された韓国があらためて関係を結びなおした基本条約から50年という節目でもある。

しかし今、そこに青空が広がっているわけではない。頭上を覆う雲は流れ去るどころか、近年、厚みを増してきた感さえある。歴史認識という暗雲だ。

それぞれの国で「自虐」と非難されたり「自尊」の役割を担わされたり。しかし、問題は「虐」や「尊」よりも「自」にあるのではないか。歴史を前にさげすまれていると感じたり、誇りに思ったりする「自分」とはだれか。

過去70年間を振り返るとき、多くの人の頭に浮かぶ歴史的な出来事は何だろうか。

震災や台風といった災害、オリンピックのような祝祭、あるいはバブル経済や政権交代かもしれない。たいていは日本の光景だろう。歴史を考えるときの「自分」とは、ふつう日本人としての「自分」だ。

しかし今、その「ふつう」が必ずしも「ふつう」ではすまない時代に入っている。グローバル時代だ。

ヒトやモノ、カネ、情報が軽々と大量に国境を超える。社会が抱える問題も国境では区切られなくなっている。金融危機や地球温暖化、感染症……。日本だけの問題ではない。被害に遭うのは多くの国の経済弱者だったり、農民だったり、人類全体だったり。解決に取り組む人々のネットワークも日本という枠におさまらない。

歴史が自分たちの過去を知り、今の課題を乗り越えて未来を切り開くための手がかりだとしたら、国ごとの歴史(ナショナル・ヒストリー)では間に合わない、ということになる。

では、どんな歴史が必要か。

米ハーバード大学名誉教授の歴史家、入江昭さんは昨年出版した「歴史家が見る現代世界」の中で「グローバル・ヒストリー」の重要性を訴えている。

国や文化の枠組みを超えた人々のつながりに注目しながら、歴史を世界全体の動きとしてとらえ、自国中心の各国史から解放する考え方だ。

現代はどんな国も世界のほかの国や人とつながり、混ざり合って「混血化」「雑種化」していると指摘する。「その流れを止めたり、もともと存在もしなかった『純粋』な過去に戻ろうとしたりするのは歴史を神話にすりかえることである」

フランスの思想家、エルネスト・ルナンが1882年、パリ・ソルボンヌ大学で「国民とは何か」という講演をした。国民国家についての古典的な考え方のひとつとされる。

そこで彼は、国民という社会を築くうえで重要なのは「忘却」あるいは「歴史についての誤り」だという。国民の本質は「すべての人が多くの事柄を共有するとともに、全員が多くのことを忘れていること」とも。だから「歴史研究の進歩はしばしば国民性にとって危険です」とまで語っている。

どんな国にも、その成り立ちについて暴力的な出来事があるが、なるべく忘れ、問題にしない。史実を明らかにすれば自分たちの社会の結束を揺るがすから――。

ナショナル・ヒストリーについての身もふたもない認識である。

そのフランスで昨年、第2次大戦中の対独協力政権(ビシー政権)について「悪いところばかりではなかった」などと書いた本が出版された。批判の矛先は、これまでの歴史研究のほか家族など伝統的な価値観の「破壊」にも向かう。ベストセラーとなった。

グローバル化でこれまで人々のよりどころとなっていた国民という社会が次第に一体感をなくす中、不安を強める人たちが、正当化しがたい時代について「忘却」や「誤り」に立ち戻ろうとしているかのようだ。

「一種の歴史修正主義です」とパリ政治学院上級研究員のカロリヌ・ポステルヴィネさん。東アジアの専門家だ。「自虐史観批判は日本だけで見られるわけではありません」

東アジアに垂れ込めた雲が晴れないのも、日本人や韓国人、中国人としての「自分」の歴史、ナショナル・ヒストリーから離れられないからだろう。日本だけの問題ではない。むしろ隣国はもっとこだわりが強いようにさえ見える。

しかし、人と人の国境を超えた交流が急速に広がりつつあるグローバル時代にふさわしい歴史を考えようとすれば、歴史は国の数だけあっていい、という考えに同調はできない。

自国の歴史を相対化し、グローバル・ヒストリーとして過去を振り返る。難しい挑戦だ。だが、節目の年にどうやって実りをもたらすか、考えていく支えにしたい。

毎日新聞 2015年01月05日

戦後70年・家族と社会 多様な暮らしの実現を

家族のかたちは国や民族によって異なる。長男が結婚後も両親と同居して一家の財産を相続する、伝統的な日本の家族は世界では少数派だ。

毎日新聞 2015年01月04日

戦後70年・歴史と政治 自分史に閉じこもるな

人は何らかの共同体に属する。小さくは家族、大きくは国家だろう。共同体での出来事は、人びとに記憶され、時間というふるいに掛けられて、やがて歴史になる。歴史は、共同体を結びつける物語でもある。

毎日新聞 2015年01月03日

戦後70年・ピケティ現象 希望求め議論始めよう

各地の図書館で今、ある本の貸し出しが長い順番待ちになっている。フランスの経済学者トマ・ピケティ氏の「21世紀の資本」だ。日本語訳が先月8日発売された。

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