毎日新聞 2013年12月08日
マンデラ氏逝く 「虹」の理想を忘れない
95歳で死去したネルソン・マンデラ氏には「神が世界につかわした人」という形容がぴったりする。南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)政策に反対し27年も収監されたが、闘いをやめなかった。その人間離れした強靱(きょうじん)な意志には誰もが驚嘆するはずだ。リビアの独裁者だった故カダフィ大佐もマンデラ氏を「聖人」と呼んだという。
だが、もっと驚くのは、マンデラ氏が「敵を突き放さず、座って話し合うことが大切」をモットーとして、自分を苦しめた白人に報復しなかったことだ。収監中に母親と長男が亡くなったが、葬儀への参列は許されなかった。氏は後に「それが一番つらかった」と語ったが、だからといって、権力を握ってからも関係者に報復はしなかった。
1993年にノーベル平和賞を受け、94年に南アの大統領になったマンデラ氏の理想は、さまざまな肌の色の人々が虹のように調和して生きる共同体をつくることだった。だから白人による黒人支配にも、黒人による白人支配にも反対した。
大統領就任演説では、オランダ東インド会社が17世紀に交易の拠点とした喜望峰こそ、南ア人と欧州人、アジア人が運命的な出会いをした場所だととらえ、「大多数の人々が希望もなく生活してきた国」を「未来への自信に満ちて働ける国」につくり替えることを誓った。
また、98年に南アを訪問したクリントン米大統領には「敵と共に座し相手を諭せる国こそが真のリーダー」「国同士の違いを認め、隔たりを取り去ることが世界の前進につながる」と語った。そんな哲学者のような顔とは別に、95年訪日時の宮中晩さん会では天皇、皇后両陛下に「ハーイ、オマタセ」と日本語であいさつするちゃめっ気も見せた。
米国初の黒人大統領であるオバマ大統領もマンデラ氏を敬愛していた。6月末に南アを訪問したオバマ氏は病床のマンデラ氏の負担になるのを恐れて面会は控えながら「マディバ(マンデラ氏の愛称)が自由のために闘い、南アが自由で民主的な国になったのは世界にとって大きな刺激だった」と語っている。
訃報を受けてオバマ大統領は直ちに声明を発表し、「ネルソン・マンデラのような人間が再び現れるとは考えにくい」と死を惜しんだ。
「聖人」はこの世を去ったが、人類が乗り越えるべき「壁」は、まだまだ多い。イスラエルはパレスチナ人居住区との間に高い壁(分離壁)を建設し、イスラム圏では宗派抗争も延々と続く。地球の南北の格差、各種の差別も存在する。前途は遼遠(りょうえん)だが、「虹の共同体」の理想へ向かう歩みを止めてはならない。
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読売新聞 2013年12月12日
マンデラ氏死去 今こそ継承したい寛容の精神
約100人の国家元首や首脳級の要人が集い、その死を悼んだ。世界中で尊敬される指導者だった証しである。
南アフリカで、アパルトヘイト(人種隔離政策)を撤廃に導いて、ノーベル平和賞を受けたネルソン・マンデラ元大統領が、95歳で死去した。
ヨハネスブルクで行われた追悼式には、皇太子さまが、福田康夫元首相とともに参列された。オバマ米大統領は演説で、マンデラ氏を「歴史上の巨人だった。国家を正義に導き、世界の何十億の人々を揺り動かした」と称賛した。
20世紀後半の南アでは、支配権を握る少数派の白人が、アパルトヘイトに基づき、多数派の黒人を法的に抑圧した。黒人には参政権がなく、居住地も制限された。
弁護士だったマンデラ氏は、黒人解放組織、アフリカ民族会議(ANC)の反アパルトヘイト活動に参加して、人種差別と闘った。反逆罪で、27年間も獄中生活を強いられたにもかかわらず、節を曲げなかったのは、驚嘆に値する。
マンデラ氏が政治指導者としての真骨頂を発揮したのは、国際社会の制裁に耐えかねた白人政権から、アパルトヘイト撤廃への協力を求められて以降だ。
ANCの武力闘争路線を終わらせ、政権との交渉で、アパルトヘイト廃止と全人種参加選挙にこぎつけた。ANCが政権を掌握したのに伴い、黒人として初の大統領に選出されたが、白人に対する報復を強く戒めた。
1994年の大統領就任演説で「黒人や白人ら全ての国民が、胸を張って歩ける社会を建設する」と約束し、副大統領には白人の前大統領が就いた。多人種共存を目指す寛容の精神が、世界の人々に深い感銘を与えたと言える。
南アで開催されたラグビー・ワールドカップ(W杯)で、白人主体の代表チームを自ら応援し、国民の一体感を育んだ逸話は、映画化され、よく知られている。
白人の企業家から経営権を奪わず、むしろその活力を生かした経済政策も実績である。持論だった鉱山国有化などには固執せず、南アの経済成長につなげた。
だが、現在の南アでは、ANC政権が長期化するに伴い、政権内で腐敗や特権乱用の傾向が目立っている。白人と黒人の間の経済格差の解消も進まない。
世界各地では、民族や宗教の違いに根ざす流血が続く。南アに限らず、国際社会全体で、マンデラ氏の残した教訓を改めてかみしめる必要がある。
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産経新聞 2013年12月08日
マンデラ氏死去 恩讐を超えた精神に学べ
巨星墜(お)つ、とはこのことを言うのだろう。
南アフリカをアパルトヘイト(人種隔離)政策撤廃へ導いたネルソン・マンデラ元同国大統領が95歳の生涯を閉じた。
マンデラ氏は、27年間に及ぶ獄中生活を経て、少数の白人支配から全人種参加への移行という一国の政治・社会体制の大変革を流血を見ず穏やかに成し遂げた点で傑出している。
歴史の節目でつまずく国が多い昨今、氏の足跡に、逆境下でも理想を曲げなかった不屈の意志と転換期の指導者像を学びたい。
氏は国家反逆罪で投獄され、監獄島の石切り場での重労働、目の障害や結核などにも耐え抜いて反アパルトヘイト運動の先頭に立ってきた。「マンデラを解放せよ」はいつしか運動の旗印となる。
獄中から釈放され、1994年の全人種選挙で南ア初の黒人大統領に就いて力量を発揮した。
人種間融和、国民和解を掲げ、自らを長く苦しめてきた白人も政権に取り込み、白人に占められていた資本や専門技術、知識の海外逃避を防いだ。政治と経済を安定させ、人種対立による流血という事態も食い止めたのである。
象徴的な光景がある。95年のラグビーワールドカップ(W杯)南ア開催で、白人の球技だったラグビーのジャージー姿で登場し、融和と和解を広く印象付けた。
特筆すべきは、受けた仕打ちへの怒り、恩讐(おんしゅう)を超えた精神の高さである。国をどこへ率いるか構想があったから、妥協への批判も厭(いと)わなかった。万事に楽観的でもあった。国難期の指導者の資質を備えていたといえる。1期5年で退任し、引き際も見事だった。
翻って後任のムベキ氏は、広がるエイズの存在を否定するなど現実感覚を失い、現職のズマ氏はマンデラ氏と対照的な豪奢(ごうしゃ)な生活、腐敗が批判される。氏を範とすべきはまず南ア指導層だろう。
同時代に燃え盛った旧ユーゴスラビア民族紛争では、発火と延焼を止める責任感と分別を持った指導者がいなかった。そして今、エジプトなど「アラブの春」が兆した国々では、平和的な体制変換や事態の軟着陸に失敗している。
南アとでは、問題の性質や政治・社会の熟度に違いがあるとはいえ、もし「マンデラ」がいたら、と想像してみたくなる。
世界はマンデラ氏の遺産を引き継がなければならない。
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