「仕方なかった」を繰り返して欲しくない――。
悲しみを長引かせ、時に増幅させるのを知りつつ、それでも検証を求め、裁判を続ける遺族たちは訴える。助けられたはずの命があったのだと。
東日本大震災から2年半。犠牲者が1万人を超す宮城県で、遺族たちを訪ねて歩いた。
がれきはほとんど目につかなくなった。ダンプが行き交い、重機が音をたてる。しかし、「復興」の垂れ幕の裏には、終わらない悲しみがある。
送迎バスが津波に巻き込まれて園児5人が亡くなった石巻市の日和幼稚園。うち4人の遺族が園側を提訴し、近く一審の判決が出る見通しだ。
女川町では、七十七銀行の支店屋上に避難した行員やスタッフ12人が死亡・行方不明となった。3人の遺族が銀行を提訴して、ちょうど1年がたつ。
児童と教職員84人が死亡・行方不明となった石巻市の大川小学校では、文部科学省の主導で市が設置した委員会で、検証作業が続いている。
遺族たちに話を聞くと、共通点が浮かび上がる。
当日の行動を知るほどに、「こうすれば死なずにすんだ」という選択肢が、はっきりしてくることだ。
地震発生後に幼稚園の送迎バスが海に向かわず、子どもたちが園にとどまっていれば……。
銀行員たちの避難先が、2階建ての支店屋上ではなく、歩いて数分の高台であれば……。
津波が来るまで50分も校庭に居続けず、子どもでも登れる裏山に逃げていれば……。
どうして、そうならなかったのか。
相手方の答えは、煎じ詰めれば「津波がここまで来るとは想定外だった」に行き着く。
説明会は開かれるが、「なかなか情報が出てこない」と遺族は言う。「仕方なかった、では同じ過ちが繰り返される」
裁判に訴えれば、損害賠償責任の有無が争われる。真相の解明、真摯(しんし)な謝罪、二度と繰り返さないための反省という、遺族が本当に求めているものが得られる保証はない。
避難行動を率いた人たちが津波の犠牲になった事例もある。
裁判の勝ち負けがどうあれ、それだけで「安全」につながるとは限らない。
それを承知でなお、訴え、争うしかなかったことに、遺族の一人は「私たちは、おかしいですかね」と問いかける。
遺族の悲しみを社会で受け止め、悲劇を防ぐ教訓を学ぶ。その努力を続けるしかない。
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