主権回復の日 国際社会復帰の重み忘れまい

朝日新聞 2013年04月29日

主権回復の日 過ちを総括してこそ

政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」がきのう、東京であった。

61年前の4月28日、連合国による占領が終わり、日本は独立を果たした。

安倍首相の肝いりで、初めて政府主催で開かれた。

首相は式辞で「未来へ向かって、希望と決意を新たにする日にしたい」と語った。そのこと自体に異論はない。ただ、気がかりなことがある。

じつは、この式典には伏線がある。自民党などの有志議員らが1年前に開いた「国民集会」である。そこへ、一国会議員だった安倍氏はこんなビデオメッセージを寄せた。

独立したのに、占領軍が行ったことに区切りをつけず、禍根を残した。占領軍によって作られた憲法や教育基本法、そのうえに培われた精神を見直し、真の独立の精神を取り戻す。次は憲法だ――。

再登板後も首相は、憲法を改正し、日本も米国を守るために戦う集団的自衛権の行使を認めるべきだと唱えている。

ただ、4・28を語る際、忘れてはならない視点がある。なぜ日本が占領されるに至ったのかということだ。

言うまでもなく、日本が侵略戦争や植民地支配の過ちを犯し、その末に敗戦を迎えたという歴史である。

占領下の7年間、日本は平和憲法を定め、軍国主義と決別して民主主義国として再出発することを内外に誓った。

だからこそ、国際社会への復帰が認められたのではないか。

そのことを忘れ、占領期を「屈辱の歴史」のようにとらえるとしたら、見当違いもはなはだしい。

最近の政治家の言動には、懸念を抱かざるを得ない。

168人の国会議員が大挙して靖国神社を参拝する。首相が国会で「侵略という定義は定まっていない」と侵略戦争を否定するかのような答弁をする。

これでは国際社会の疑念を招くばかりだろう。

とはいえ、式典開催を求めてきた人々の思いも決して一様ではない。

そのひとり、自民党の野田毅氏はこう説く。

同じ敗戦国のドイツは、全国民的に過去の総括にとりくみ、国際社会での立ち位置を定めた。その経験にならい、日本人も占領が終わった4・28と、戦争が終わった8月15日を通じて、左右の立場の違いを超えて総括しよう。

そんな節目の日とするというのなら、意味がある。

読売新聞 2013年04月29日

主権回復の日 国際社会復帰の重み忘れまい

日本が、サンフランシスコ講和条約の発効によって戦後の占領支配から解放されたのは、1952年4月28日だ。国際社会の責任ある一員になると誓った意義深い日である。

政府は61年後のこの日、主権回復と国際社会復帰を記念する式典を憲政記念館で開いた。

「これまでの足跡に思いを致しながら、未来へ向かって希望と決意を新たにする日にしたい」

そう語った安倍首相は、占領期を、「わが国の長い歴史で初めての、そして最も深い断絶であり、試練だった」と振り返った。

占領下では、閣僚人事も国の予算や法律も、連合国軍総司令部(GHQ)の意に反しては決められなかった。言論統制もあった。

こうした歴史が、国民の間で忘れ去られようとしている。主権を失う事態に至った経緯も含め、冷静に見つめ直すことが肝要だ。

内外に惨禍をもたらした昭和の戦争は、国際感覚を失った日本の指導者たちの手で始められた。敗戦と占領は、その結末である。

日本は主権回復後、国連に加盟し、高度成長を成し遂げて、今日の豊かで平和な社会を築いた。

だが、沖縄県・尖閣諸島沖での中国監視船の領海侵入や、韓国の竹島不法占拠、北方領土で進行する「ロシア」化など、領土・領海を巡る問題は今もなお、日本の主権を揺さぶっている。

今年の政府式典は、そんな主権の現状を考える節目となった。

一方、沖縄県宜野湾市では、政府式典に抗議する「屈辱の日」沖縄大会が県議会野党会派などの主催で開催された。

沖縄は、奄美、小笠原と共に講和条約発効と同時に日本から切り離され、米軍施政下に置かれた。かつて戦場となり、主権回復からも取り残され、米軍基地建設が進んだ。このため沖縄では4月28日は「屈辱の日」と呼ばれる。

しかし、日本が主権を回復したからこそ、米国と交渉し、沖縄返還を実現できたことも事実だ。

沖縄を軽視した式典でないことは言うまでもない。首相は式辞で「沖縄の人々が耐え忍ばざるを得なかった、戦中戦後のご苦労に対し、通り一遍の言葉は意味をなさない」と沖縄にも言及した。

仲井真弘多沖縄県知事の代理で式典に出席した高良倉吉副知事は「首相は比較的、沖縄の問題に向き合って発言された」と語り、式典に一定の理解を示した。

沖縄の歴史も踏まえて、米軍基地問題の解決への道筋を考える機会にもしたい。

産経新聞 2013年04月29日

主権回復の日 強い国づくり目指したい

サンフランシスコ講和条約発効から61年を迎え、初の政府主催による「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が、天皇、皇后両陛下をお招きして開かれた。

安倍晋三首相は「きょうを一つの大切な節目とし、これまでたどった足跡に思いを致しながら、未来へ向かって希望と決意を新たにする日にしたい」と述べた。沖縄の本土復帰が遅れたことにも言及し、「沖縄が経てきた辛苦に、深く思いを寄せる努力をすべきだ」と呼びかけた。

国際社会の平和と繁栄に貢献したいという意欲がうかがわれた。安倍政権はそのために、一層強い国づくりを目指してほしい。

4月28日は、敗戦国の日本が被占領体制から脱し、国家主権を取り戻した日である。国家主権は、自国の意思で国民や領土を統治するという、国家が持つ絶対的な権利を意味する。国民主権とともに重要な権利だが、戦後、日本国憲法の下で軽視されがちだった。

最近、中国が尖閣諸島奪取を狙い、周辺で領海侵犯を繰り返している。また、中国艦は海上自衛隊の護衛艦に、レーダー照射を加えてきた。日本の国家主権を脅かす深刻な事態である。

本紙は「国民の憲法」要綱で、国家主権を明記した。政府も国民も、国家主権の大切さを改めて考えてみる必要がある。

式典に沖縄県の仲井真弘多知事は欠席し、高良倉吉副知事が代理出席した。沖縄では、野党系県議らがこの日を「屈辱の日」とし、式典に抗議する集会を開いた。

しかし、県内は反対一色ではない。「4月28日は沖縄にとっても大切な日。この日があるから昭和47年に祖国復帰できた」「屈辱の日ではない」との声もある。

吉田茂元首相は1951(昭和26)年9月の講和条約受諾演説で「北緯29度以南の諸島(沖縄と奄美諸島)の主権」が日本に残されたと述べている。沖縄は日本の独立回復後20年間、米国の施政権下に置かれたが、潜在主権は認められた。これは重要な事実だ。

主権を考える上で、日本の主権が侵害された拉致事件も忘れてはならない。沖縄、奄美、小笠原諸島は米国から返ってきたが、北方領土はロシア、竹島は韓国にそれぞれ不法占拠されたままだ。

北方領土と竹島が返り、拉致被害者全員が日本に帰るまで、真の主権回復はない。

朝日新聞 2013年04月29日

主権回復の日 47分の1の重い「ノー」

政府式典と同じ時刻、沖縄県宜野湾市ではこれに抗議する集会があった。

集会の最後、1万人の参加者が「がってぃんならん」(合点がいかない=許せない)と、5度スローガンの声を合わせた。

地元紙などの事前の世論調査では、約7割の県民が政府式典を「評価しない」と答えている。県民感情に配慮して仲井真弘多知事は式典を欠席し、副知事が代理出席した。

61年前のこの日、沖縄、奄美、小笠原は日本から切り離され、米国の施政下に入ったからだ。沖縄で「屈辱の日」といわれるゆえんである。

もっとも、沖縄の人々が「4・28」に寄せるまなざしは、はじめからこうだったわけではない。当時の地元紙を読むと、本土から切り離されたことを嘆くより、祖国の独立を素直に喜ぶ論調があふれている。

それがなぜ、かくも隔たってしまったか。その後の沖縄の歴史抜きには語れない。

本土では主権回復後、米軍基地が減る一方、沖縄では過酷な土地接収で基地が造られた。

72年の本土復帰後も基地返還は進まず、いまも米軍基地の74%が集中する。米兵による犯罪や事故も絶えない。

それだけではない。県民の反対にもかかわらず、政府はあくまで普天間飛行場の辺野古移設にこだわっている。

一方で、在日米軍に特権を与えた日米地位協定の改正には触れようとせず、オスプレイの配備も強行した。

「がってぃんならん」ことが現在進行形で続いているのだ。

「沖縄には主権がない」「本土による差別だ」。そんな声さえ聞かれる。

沖縄の人々が、主権回復を祝う式典に強い違和感を抱くのは無理もあるまい。

政府だけの話ではない。知事が求める普天間の県外移設にしても、オスプレイの配備分散にしても、引き受けようという県外の自治体はほとんどない。

沖縄の異議申し立ては、そんな本土の人々にも向けられていることを忘れてはならない。

安倍首相は、政府式典で「沖縄が経てきた辛苦に思いを寄せる努力を」と語った。

その言葉が本当なら、政府はまず、辺野古案にこだわるべきではない。地位協定の改正も急がなくてはならない。

やはり4・28に発効した日米安保条約の下、沖縄の犠牲の上に日本の平和は保たれてきた。

47分の1の「ノー」が持つ意味の重さを、私たち一人ひとりがかみしめなければならない。

この記事へのコメントはありません。

この社説へのコメントをどうぞ。
お名前
URL
コメント

この記事へのトラックバックはありません。

トラックバックはこちら
http://shasetsu.ps.land.to/trackback.cgi/event/1391/