11月1日は、今年から国が法律で決めた「古典の日」だ。
古典は勘弁してほしい、という人は少なくないだろう。古文の授業で「ありをりはべりいまそかり」などと丸暗記した文法も、大人になって音しか覚えていない人も多いだろう。
だとしても、学校教育の苦い思い出だけで古典を遠ざけておくのはもったいない。
古典はただの「古い作品」ではない。時代をくぐり抜けた強さを持ち、時に現代では失われた美を保つ。来(こ)し方(かた)行(ゆ)く末(すえ)を思わせる古典は、人生経験を積んだ大人こそ楽しめるものだ。
古典の日の日付は、紫式部が源氏物語に日記でふれた最古の日(1008年11月1日)にちなむ。源氏物語千年紀を祝った京都の文化人らが法の制定を求め、9月に成立した。
条文で「国民が古典に親しむことを促し、その心のよりどころとして古典を広く根づかせ」るために、国や地方公共団体が「ふさわしい行事が実施されるよう努める」とうたう。
何が古典か、という定義は広い。文部科学省の通知によると文学から美術、演芸などあらゆる分野に及び、外国由来のクラシック音楽なども含む。明治の作品でもよいという。
文化庁の調べでは、今年は京都や東京の28カ所で行事が催される。それらのイベントは、古典嫌いの人に少しでも関心を持ってもらえるだろうか。
古典は言葉が古かったり、感覚が異なっていたりして、なじみにくい面があるのは確かだ。
ただ、能・狂言や歌舞伎・文楽のように現代まで実演が続けられ、見ることから入れる古典もある。楽しむコツは、超一流の演者を選ぶことだ。
例えば、文楽だったら人間国宝、竹本住大夫(すみたゆう)の語り。残念ながら病気療養中だが、その歯切れのいい節回しは、初めて文楽を体験する人の耳にもすっと入る。字幕や台本を見なくとも、江戸時代の男女の悲劇が切々と心に迫るのだ。超一流は古典でも分かりやすい。
とかく古典の話では、教養をひけらかす文化人がいてうんざりさせられることもある。
だが、イタリアの大作家、イタロ・カルヴィーノは「まだ読んでない基本的な本の数は、つねに読んだ本の数をはるかに超えている」と断言する。そして「古典を壮年、または老年になってから初めて読むのは比類ない楽しみ」という(「なぜ古典を読むのか」)。
気後れする必要はない。古典を学校教育で終わりにせず、自分のペースで楽しもう。
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