終戦記念日のきのう、松原国家公安委員長と羽田国土交通相が、靖国神社に参拝した。
政権交代を果たした09年の総選挙で、民主党は「首相や閣僚の公式参拝には問題がある」と政策集に明記した。
民主党政権になってこれまで2度の終戦記念日は閣僚は参拝せず、野田内閣も発足時に「首相、閣僚は公式参拝しない」と申し合わせていた。
2閣僚はともに「私的」な参拝だと強調し、藤村官房長官も追認した。「公式」な参拝でなければ、党の公約や内閣の方針と矛盾しないと考えたようだ。
だが、その理屈は通らない。
靖国参拝をふくめ、一般の国民がそれぞれのやり方で戦没者を弔うのは自然な感情だ。
一方で、靖国神社には先の大戦の指導者であるA級戦犯が合祀(ごうし)されている。
そこに首相や閣僚が参ることに違和感を抱く国民は少なくない。侵略された中国や、植民地支配を受けた韓国に快く思わない人が多いのも理解できる。
首相や閣僚は、日本を代表する立場の政治指導者だ。一政治家でも一国民でもない。公的な配慮を何よりも優先すべきことは言うまでもない。
小泉元首相の靖国参拝は、中韓両国の猛反発を招いた。両国の参拝中止の要求が、逆に日本では「内政干渉は許されない」とのナショナリズムを沸き立たせた。まさに悪循環だった。
その教訓を重く受け止めたからこそ、民主党は政権交代後、繰り返し「首相や閣僚の参拝自粛」を確認し、それを実行してきたのではなかったか。
折も折、日本の植民地支配からの解放を祝う「光復節」の前日、韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領が、謝罪を天皇訪韓の条件にするともとれる発言をした。
韓国内には、韓国併合や旧日本軍の慰安婦問題をめぐって強い対日批判がある。それをあおるかのような大統領の発言を、野田首相が「理解に苦しむ」と批判したのは当然のことだ。
一方、きのうの光復節の演説で大統領は、日本について「未来をともに開いていかねばならない重要な同伴者」と位置づけ、激しい対日批判は控えた。
急変に戸惑うが、歴史に向き合いつつも、未来志向を基本として進むしか道はない。
変化の兆しのある北朝鮮との外交。さらには、共益を高める経済連携の強化。日本と近隣諸国には共通の課題が山積みだ。
歴史をめぐる溝は、互いにいがみ合うことでは埋まらない。近隣での共同作業の積み重ねこそが、時代の要請である。
この記事へのコメントはありません。