地下鉄サリン事件から17年。最後まで逃げていた2人が相次いで捕まり、一連のオウム事件の捜査は終わる。
多くのなぞと傷あとを残した事件だった。
手配写真と様変わりした2人の顔にはだれもが驚いた。しかし、この社会の顔立ちもまた、17年の間にずいぶん変わった。
深く刻まれた不安と不信。
その象徴が、高橋克也容疑者を追いつめた防犯カメラだ。
業界団体によると、その市場規模は事件前の倍にふくれ、今や推定で全国300万台以上が市民を24時間見つめる。じつに40人に1台の計算だ。
地下鉄にまかれた毒物は13人の命を奪い、6千人を負傷させた。顔も知らぬ人たちから、いわれなき憎悪を向けられる。その事実に私たちはおびえた。
01年の米同時多発テロや08年の秋葉原無差別殺傷事件も、追い打ちをかけた。顔の見えぬ悪意から身を守りたい。切なる願いに、「見られている」居心地の悪さはいつしか薄れた。
「防犯カメラによる安全・安心の確保と、プライバシーの尊重。どちらをとりますか?」。警察庁の有識者会議が3年前、ある大都市でアンケートした。
9割の市民が前者を選んだ。
カメラに「見られている気がして落ち着かない」人は2割に満たず、過半数が「見守られていて安心」と答えた。
互いの生活に立ち入らず好きに暮らせる社会を、私たちは築いてきた。半面、とくに都会ではだれが隣に住んでいてもわからなくなった。止まらぬ自殺、孤立死が示すように、だれも頼りにできない空気がある。
「見られている」を「見守られている」に変えたのは、この無力感ではなかったか。
防犯カメラは捜査に威力を発揮した。一方でその網目をかいくぐり、2人が17年も身を潜めてこられたのも事実だ。
菊地直子容疑者をあぶり出したのは機械ではなく、生身の人の目だった。大みそかに平田信被告が出頭し、社会の関心が再び事件に向いたことと無縁ではないだろう。人々の注視なくして機械のみで社会は守れない。
犯罪の発生件数はこの10年で半減し、検挙率も20%から31%に回復した。組織的な無差別テロはオウム以来おきていない。
冷静に考えれば治安はよくなっている。なのに不安は治まらない。悪意を向けられた理由が今も思い当たらないからだ。
このまま不安を土台に社会を築いてゆくべきか。正解はなさそうだが、その変貌(へんぼう)から目をそむけず自問を続けるしかない。
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