全原発停止 これでは夏の電力が不足する

朝日新聞 2012年05月06日

「原発ゼロ」社会:下 市民の熟議で信頼構築を

福島第一原発の事故をきっかけに、政治や行政、科学者などへの不信と疑念が広がった。

その連鎖を断ち切り、信頼を再構築するにはどうしたらいいのだろうか。

政府は新たな原発・エネルギー政策に向けた「国民的議論」を掲げる。関係する審議会や調査会で検討してきた選択肢を整理して、国民に提示する。夏までに今後の方向性について合意を目指す考えという。

ただ、議論の前提が整っているわけではない。政府の事故調査委員会の報告はまだだ。原子力規制庁(仮称)もできていない。原発の新しい安全基準作りはさらに先になる。この夏の電力需給や自然エネルギーの普及度合いも議論を左右する。

知恵を絞る必要がある。拙速にことを運べば、かえって不信を広げかねない。

欧米では、科学者ら専門家への「信頼の危機」に見舞われた際、市民参加による熟議を通じて信頼の再生を図ってきた。

たとえば、英国は牛海綿状脳症(BSE)のヒトへの感染を否定した専門家の信頼が地に落ち、市民参加型の議論に本腰を入れた。遺伝子組み換え作物をめぐる議論にはネット経由を含め2万人が参加した。ナノテクノロジーの安全性でも、様々な議論の場が設けられた。

科学技術は暮らしを便利にするが、思わぬ副作用や危険性もある。公害や大事故などを経て、実用化の是非などに社会の意見を反映する流れが世界的に加速している。

一方、低下傾向にある民主政治への信認を補う目的でも、政策形成に市民が加わるさまざまな仕組みが考案されてきた。

原発・エネルギー政策は、この二つの流れが重なる最大級のテーマといえる。

日本の原発政策では住民の意見を聞く形をとりながら、実際は既定の方針を正当化する「名ばかり民主主義」が横行してきた。九州電力で発覚したやらせメールはその典型例だ。

これに対し、欧米での市民参加型では、無作為抽出などで数十人程度の「普通の人々」を選ぶのが一般的だ。いわば「社会の縮図」である。

参加者は基礎知識を学んだうえでじっくり考え、議論する。その結果を意見書やアンケートで集約し、行政や議会に尊重させるといった流れをとる。

議論が社会から信用されるための生命線は、独立、中立、そして透明性だ。

中立で独立した主催者のもとで、議論を誘導しないよう習熟したスタッフが進行役をつとめる。議事に協力する専門家が業界や行政とどんな関係にあるのかも明らかにする。

これらの方法は決して魔法の杖ではない。手間も金もかかるうえ、最終的な決定権はない。選挙で選ばれた議会に代わるわけではない。あくまで補完として、その時々の暫定的な市民社会の常識を示すにすぎない。

それでも、これまでのやり方の欠点を補う力はある。市民の良識や、譲れない信条の違いを「見える化」する。賛否両極に大きく割れる原発議論を乗り越えるには必要な機能だ。

熟議の成果を次世代へリレーするなら、「将来世代」の意思決定権を尊重する動機もはたらく。使用済み核燃料の処分など末代まで関わる問題に、ひとつの方法を示唆してもいよう。

さらに、各政党がさまざまな政策を掲げる選挙では個別政策で必ずしも最適の選択ができない、というジレンマを解きほぐすのにも有効だ。

かつて徳島市では吉野川の可動堰(ぜき)問題をめぐり、賛否から距離を置く市民が勉強会を数多く開き、その実績を踏まえて市が住民投票を行ったことがある。

国政でも、草の根の熟議を継続させ、数年間の実績を経てから国民投票にかける仕組みもありえよう。

政府が考える国民的議論も、中立的な担い手に運営を任せたうえで、もっと時間をかけ、議論を将来につなげるよう、工夫してはどうだろう。

政府としては脱原発依存の方針を早く具体化すべきだが、熟議型の議論を続けることは政策の定着や見直しに役立つ。

市民参加型の熟議を支えるうえで、大きな役割を果たしているのが議会(国会)だ。

日本でも福島事故では国会が調査委員会を設け、事実究明に力を注いでいる。ここは、民意の熟成にも目配りしてほしい。原発・エネルギーに限らず、税と社会保障改革など世代を超えた難題は目白押しである。

国会に事務局を置き、自ら熟議集会を主催したり、大学やNPOなど中立組織による開催を支援したりしてはどうか。

不信と混迷が深まると、強い指導者を求めがちだ。しかし、政策への市民の関与を強め、わがこととして解決する道こそが民主主義を深化させる。

読売新聞 2012年05月05日

全原発停止 これでは夏の電力が不足する

国内で1基だけ稼働している北海道電力泊原子力発電所3号機が5日、運転を停止する。全国50基の原発がすべて止まり、全電源の3割が失われる異常事態だ。

原発の稼働がゼロになるのは、原発がわずか2基だった1970年以来、42年ぶりである。

東京電力福島第一原発の事故の影響で、定期検査で止めた原発を、検査を終えた後も再稼働できなくなっていることが原因だ。

事故の教訓を踏まえ、原発の安全性を再確認するのは重要だ。だが、政府の原子力政策が迷走し、再稼働への手続きにブレーキをかけた点は看過できない。

菅前首相による突然の「脱原発宣言」など場当たり的な対応は、原発への不信を増幅させた。「やらせメール問題」をはじめ、電力会社や原子力安全・保安院の不祥事も、足を引っ張った。

野田首相らは4月中旬、新たな判断基準で関西電力大飯原発3、4号機の安全を確認し、再稼働は妥当だと判断した。しかし、地元の理解を得られず、調整はなお難航している。枝野経済産業相の発言がぶれた影響も大きい。

このままでは電力需要が膨らむ夏に間に合わない恐れがある。

特に大飯原発のある関電管内は原発依存度が高い。再稼働しないと、猛暑時の電力不足は約15%にのぼるという。法律による節電の義務づけや計画停電が、必要になるかもしれない。

首相が先頭に立ち、大飯原発の再稼働実現に向け、地元の説得に全力を挙げるべきだ。

深刻さは関西にとどまらない。節電などの効果を入れても、全国の夏の電力需給は綱渡りだ。15基以上の原発が動いていた去年に比べてはるかに厳しい。昨夏のように、節電すれば乗り切れる、と楽観するのは危険である。

経団連が先月に実施した調査では、製造業の7割が電力供給に不安があれば減産すると答えた。

原発を代替する火力発電の燃料費は、全国で年3~4兆円も余計にかかる見込みで、電力料金のさらなる値上げも懸念される。電力不足が景気を冷やし、産業空洞化に拍車をかけることになろう。

厳しい節電目標を家庭に強いれば、真夏の暑さが高齢者など弱者の健康を損なう恐れがある。

原子力規制庁の設立が遅れ、大飯以外の再稼働手続きがストップしているのも大きな問題だ。

与野党は規制庁設置を巡る協議を進め、再稼働の審査にあたる新体制作りを急がねばならない。

産経新聞 2012年05月06日

「原発ゼロ」 異常事態から即時脱却を 安全技術の継承は生命線だ

北海道電力の泊原子力発電所3号機が定期検査に入り、日本国内の全原発50基が運転を停止する「原発ゼロ」が現実になった。

電力の3割を担ってきた原発の稼働が皆無という前例のない異常な事態を深刻に受け止めたい。

定期検査を終えて再稼働を待つ関西電力の大飯原子力発電所3、4号機(福井県)の復帰見通しは立たないままだ。地元理解の獲得や最終的な政治判断の段階に至っていないためである。

暮らしや経済を支える電力供給は、需要ピークの夏場に綱渡りを強いられる情勢だ。だが、こうした事態を迎えても、野田佳彦政権から一向に危機感が伝わってこないのは異様である。

≪首相は危機感あるのか≫

野田首相自らが地元を訪ねて原発の安全性に責任を持つことを明言し、再稼働を主導すべきだ。

事態は切迫している。政府の試算でも、原発の再稼働なしに猛暑を迎えた場合、沖縄を除く9電力会社の平均で0・4%の電力不足となる見通しだ。

北海道と九州は3%台の不足となり、原発利用率の高い関西では15%前後もの電力不足が見込まれている。「節電」では対応が難しい危機的な状況を迎える。

昨夏、強制的な電力使用制限令が発動された東北・東京電力管内では多少の余裕を見込んでいるが、それも昨年並みの厳しい節電が前提だ。2年連続の電力不足は工場の海外移転による産業空洞化に拍車をかけることになる。

朝日新聞 2012年05月05日

「原発ゼロ」社会:上 不信の根を見つめ直せ

北海道電力・泊原発3号機が5日、定期検査のため運転を止める。これで、国内すべての原発が停止する。

世界で3番目に原発の多かった日本が、世界最速で「原発ゼロ」状態に入る。

脱原発への民意を政治がしっかり受けとめた結果であれば、歓迎すべきことだ。

しかし実態は、政府の再稼働ありきの姿勢が原発周辺の自治体をはじめとする世論の強い反発を受け、先が見えない中での原発ゼロである。

不信の連鎖がそこにある。

福島第一原発の事故は、私たちの社会が前提とする「信頼性」を根底から揺さぶった。

水蒸気爆発やベントをめぐる混乱、炉心溶融(メルトダウン)に関するあいまいな説明、放射性物質の拡散を予測するSPEEDIの情報開示や避難指示の遅れ――。

事故直後からの迷走は、原発を推進してきた組織と人々が、事故への備えという基本的な能力に著しく欠けていた事実をあらわにした。

なにより大きかったのは、自分たちに都合の悪い情報は隠そうとしている、という疑念を広げたことだ。

その矛先は、被曝(ひばく)によって身体的な安全が脅かされるというリアルな危機感のなか、電力会社や政治のみならず、行政、科学者・専門家、財界、マスメディアと、既存の体制そのものへと増幅していった。

原発事故は、信頼を基盤とすべき社会を「不信の巣」へと変えたのだ。

ところが、既存の体制はその根深さをくみとれていない。

象徴が再稼働問題だ。

国民の多くは、必ずしも急進的な脱原発を志向しているわけではないだろう。電気が足りなくなることで「生活や経済に悪い影響が出るのでは」と心配している様子は、朝日新聞の世論調査からも浮かびあがる。

それでも、福島事故を目の当たりにした以上、原発はいったんゼロベースから考え直さなければならない。そう思うのは自然なことだ。

であれば、政治が取り組むべきことは明らかだった。

例えば、稼働から40年以上たつ美浜や敦賀といった老朽炉、巨大地震のリスクが高い浜岡をはじめとして、原発を減らしていく意思を明確に打ち出す。

使用済み核燃料や閉鎖した炉などの放射性廃棄物をどう処理していくか、本腰を入れて取り組む姿勢を示す。

原発の停止で電力が足りなくなるのを見越して、節電を組み込んだ電力調達市場を昨年のうちから整備することも、柱の一つだったはずだ。

しかし、野田政権は「脱原発依存」を掲げながら、規制当局の見直しをはじめ、何ひとつ現実を変えられていない。

再稼働についても、ストレステストをもとに形式的な手順さえ踏めば、最後は電力不足を理由に政治判断で納得を得られると踏んだ。

これで不信がぬぐい去れるわけがない。福島事故で覚醒した世論と、事故前と同じ発想で乗り切ろうとする政治との溝は極めて大きい。

むろん、政治への不信はいまに始まった話ではない。

政治への信頼度をテーマに、約140カ国を対象に実施された世論調査がある。経済協力開発機構(OECD)加盟国を中心にした37カ国では、日本は政府への信頼度が36位、国のリーダー層の能力評価は31位。ギリシャと同水準だ。

日本での調査は自公政権下の08年だった。だが、民主党に政権が代わって、何か変化があっただろうか。むしろ、原発をめぐる混迷は不信を決定的なものにしたのではないか。

作家の高橋源一郎さんは、昨年8月25日付朝日新聞の「論壇時評」で、いまある制度の延長線上でしか語れない政治の貧困を指摘し、「この国で起こったことから、なにも学ばなかったのだろうか」と問うている。

いま、政治への国民のいら立ちをうまくすくいとっているのは、再稼働問題で政府を批判する橋下徹大阪市長なのだろう。

ただ、有権者が政治家個人の突破力に期待するばかりでは、行き詰まる。

原子力をどのように減らし、新たなエネルギー社会をどう構築するか。私たち自らが考え、合意形成をはからなければならない。それは、原発政策を国に「おまかせ」してきたことからの教訓でもある。

低線量被曝の問題も同様だ。除染や食品安全の基準では、放射線の影響をめぐって科学者のあいだでも意見が割れている。正しい答えのない問題だ。自分自身で学び、合理的だと思う考えを選びとるしかない。

とことん考え合うことのできる空間をどうつくり出すか。明日の社説では、それを論じる。

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