日本国憲法は、だれのためにあるのか。
答えは前文に記されている。「われらとわれらの子孫のために……、この憲法を確定する」と。
基本的人権は、だれに与えられるのか。
回答は11条に書いてある。「現在及び将来の国民に与へられる」と。
私たちは、これらの規定の意味を問い直す時を迎えている。
いま直面しているのは、将来の人々の暮らしや生き方をも拘束する重く厳しい選択ばかりだからだ。
原発事故はすでに、何十年も消えない傷痕を残している。地球温暖化や税財政問題でも、持続可能なモデルをつくれるかどうかの岐路に立つ。
ならば、いまの世代の利益ばかりを優先して考えるわけにはいくまい。いずれこの国で生きていく将来世代を含めて、「全国民」のために主権を行使していかねばならない。
施行から65年。人間でいえば高齢者の仲間入りをした憲法はいま、その覚悟を私たちに迫っているように読める。
現実の日本の姿はどうか。
将来世代どころか、いまの子どもたちの「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(25条)まで、知らず知らずのうちに奪ってはいないか。
子どもの貧困率は、経済協力開発機構(OECD)の平均を上回り、7人に1人が苦しい暮らしを強いられている。
主な理由は、ひとり親世帯の貧しさだ。2000年代半ばの各国の状況を比べると、日本ではその6割近くが貧困に陥り、30カ国の中で最も悪い。「1億総中流」とうたわれたのは、遠い昔のことのようだ。
原因は何か。OECDは次のような診断を下している。
第一に所得の少なさである。著しく賃金が低い非正規労働が急速に広がり、とりわけ母子家庭の母親の多くが低賃金を余儀なくされている。
第二に所得再分配のゆがみである。社会保障が年金や医療、介護など高齢者向けに偏り、子どもを持つ世代、特に貧困層への目配りが弱い。このため、いまの税や社会保険料の集め方、配り方では、子どもの貧困率がいっそう高まる現象が日本でのみ起きている。
正社員の夫の会社が、家族のぶんまで給料で面倒を見る。専業主婦かパートで働く妻が子育てを担う。それが、かつて「標準」とされた家庭像だった。
国が幅広く産業を支援し、高齢者に配慮すれば、多くの人が「中流」を実感できた。
だが、会社と家庭に頼る日本型福祉社会は壊れている。前提だった経済成長、会社倒産の少なさ、離婚の割合の低さなどが揺らいだからだ。
社会の変容に伴い、会社や家庭が差し出す傘の中に入れない人たちが増えた。
たとえば、母子家庭の子どもがその典型だろう。
就職をめざす若者もそうだ。正社員の大人がみずからを守るために、新規採用を絞り込む。
これは傘の中の大人が、子どもたちを傘に入れまいとする姿ではないか。個々の大人に悪意はなくても、社会全体で子どもを虐げていないか。
私たちは、もっと多くの人々が入れる大きな傘を作り直さなければならない。
そのために、再分配の仕組みと雇用慣行を改めよう。
貧しくても教育をきちんと受けられるようにして、親の貧困が次世代に連鎖するのを防ぐ。同じ価値の労働なら賃金も同一にして、正社員と非正社員との待遇格差を縮める。こんな対応が欠かせない。
反発はあるだろう。実現するには他のだれか、たとえば子育てを終えた世代や正社員が、新たな負担を引き受けなければならないからだ。
しかし、ここであえて問う。
互いの利害は本当に対立しているのか。
子どもたちを傘の外に追い出した大人は、自分が年老いたとき、だれに傘を差し出してもらうのか。そこから考えよう。
年金の原資は、現役世代が支払う保険料と、消費税である。
企業が正社員を減らせば厚生年金の加入者が減る。低賃金の非正規の仕事で働く若者は消費を削らざるを得ない。
つまり採用削減は、正社員が将来受けとる年金の原資を減らしていく。いずれは、我が身の老後を危うくするのである。
若者が結婚し、子どもをもうけることが難しくなれば、さらに少子化が進む。消費も減り、市場が縮み、企業は苦しくなる。そんな負の連鎖に日本はすでに陥っている。
将来を担う世代を大切にすれば社会は栄え、虐げれば衰える。憲法記念日に、そんな当たり前のことを想像する力を、私たちは試されている。
この記事へのコメントはありません。